九鬼嘉隆(くき よしたか)という武将をご存知でしょうか?
織田信長のもと、鉄甲船の水軍をつくり、毛利水軍を破った事でしられている戦上手な武将であるとされていますが、そんな九鬼嘉隆も生涯で手痛い敗戦をしている。
九鬼嘉隆は志摩田城城主九鬼定隆の次男として生まれました。
天文20年(1551年)に、九鬼嘉隆の父が死去し家督は兄浄隆が継いぐと、志摩の九鬼配下の地頭の12人が隣国伊勢国司・北畠具教の援助を受けて反旗を翻して、志摩田城を攻めきた。
嘉隆は兄の九鬼浄隆を助け抗戦していたが、浄隆は戦の最中に死亡してしまう。
ただそこは戦上手の片鱗からか、兄亡き後も、兄の子、九鬼澄隆を助け敵勢力と互角に渡り合っていた。
ところが、そこに、ふらりと...
相手方の敵軍団の中に武田信玄のオヤジさん、武田信虎があらわれたのである...。
当時の武田信虎は息子信玄に追放され、敵にあたる甲賀藤九郎の館に居候していた。
当然、居候の身で暇だったであろう信虎さん、相手の敵軍の軍師を買って出でてきたのである。
ちなみにこの信虎さん、信玄のオヤジさんだけあって、戦はほとんど負けた事がないというぐらい軍神さん。
そんなお方が相手方にフーテンの寅さんよろしく、居候して、暇だからいっちょ戦でもしてやるか、なんて九鬼からしてみれば、とても迷惑な話だが...この信虎の軍略の前にはあっさりと嘉隆も大敗。
彼らは命からがら朝熊山に逃れて、その後織田信長の配下滝川一益にひろわれるのである。
さすがの九鬼も武田信虎の前ではどうしようもなかったようですね。


御庭番(おにわばん)とは?忍者?庭師?その実態は
伊東一刀斎(いとう いっとうさい)
歌仙という名の刀|和泉守兼定之作 最上大業物【細川忠興の刀】
わら草履は投げて渡した。武家屋敷で使えていた奉公人のお仕事

御庭番(おにわばん)とは?忍者?庭師?その実態は
御庭番(おにわばん)とはなんでしょうか?お庭の番なので庭師か?と思う人もいるかもしれません
もしくは、時代劇が好きな人は忍者でしょとおもうかもしれませんね。
御庭番(おにわばん)は江戸時代の第8代将軍、徳川吉宗がはじめて創設した江戸幕府の役職のひとつです。
公な業務は、将軍が庭を散歩したりするときについて回る警護役の人達をいいました。
しかし、裏の顔は、将軍から直接の命令を受けて、各大名の情報を探ったりする隠密行動する部隊、将軍直属の間者、忍びの任を務をしていました。
ただし、実態は時代劇のような、完全な忍者ではありません。
時々将軍や老中の命令を受け、江戸市中の情報を将軍に報告したり、商人や僧侶に化けて地方に赴き情勢を視察したりしていた程度ででした。
そもそも武鑑という当時の武士名鑑に住所や名前、給料などが堂々と公開されており、あまり忍者というようななかったようです。
ですので大目付、目付などを補う将軍直属の監察官に相当する職であると現在では考えられています。
また、そもそも紀州藩出身の吉宗が、紀州藩からつれてきた下級武士がお庭番の役目をになっており、それ以降代々、世襲でその役目を引き継いでいきました。
幕末までにはその多くが下級の旗本まで出世をしています。
伊東一刀斎(いとう いっとうさい)
伊東 一刀斎(いとう いっとうさい)は、戦国〜江戸初期にかけての剣豪。バガボンドにも、すごいつよい剣豪としてでてくるので、最近は知っている人もけっこういるかもしれない。
ちなみにこの方、江戸時代に隆盛した一刀流剣術といわれる剣術の祖にあたる大人物で、生涯無敗だったという、すごい人です。
一刀斎の自身の経歴はいろいろな説が多くありどれが本当なのかわかっていない。
生まれなども不明。
*1550年(天文19年)生まれ説や1560年(永禄3年)生まれ説などいろいろ
*出身地も一般には伊豆国伊東の人であるとされているが、伊豆大島出身という説もある。
伊東一刀斎いくつかの逸話
「瓶割刀」の逸話
一刀斎は三島神社にて富田一放と試合し、勝ち、神主から宝刀を与えられた。
この刀で一刀斎は盗賊7人を斬り殺し、最後の1人が、大瓶に隠れたところを、瓶もろとも真っ二つに斬ったという逸話がある。
無敗の逸話
『一刀流歴代略』によると「景久師、回國他流戰三十三なりと、没日は七日なりと。年號つまびらかならず」とあり、一刀斎は諸国を遍歴し、勝負すること33度、ただの一度も敗れたことがなかったという。
中条流の達人鐘捲自斎から剣を学んだ
『一刀流極意』では「中条流の達人鐘捲自斎通宗を江戸に訪ね、自斎から中条流の小太刀や自斎の工夫になる 中太刀を学んだ。弥五郎(一刀斎)は日夜一心不乱に鍛錬の功を積んだため、自斎は感心し、自流の極意、奥秘の刀たる妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥 王剣、独妙剣の五点をすべて弥五郎に授けた」となっている。
伊東一刀斎の必殺技!
秘太刀「払捨刀」
自ら編み出した剣の極意(必殺技みたいなもの)のなかに、一刀斎自身が愛人にだまされ、刺客に寝込みを襲われた時に、逆襲した。その際に、突然に剣の極意がひらめいた!らしく...
それがもとになって秘太刀「払捨刀」という極意がうまれたといわれている。
秘太刀「夢想剣」
刃引・相小太刀・越身、鶴岡八幡宮に参籠して無意識のうちに敵を斬り、「夢想剣」悟りを得たという
歌仙という名の刀|和泉守兼定之作 最上大業物【細川忠興の刀】
歌仙(かせん)という日本刀をしっていますでしょうか室町時代の名工、和泉守兼定作の刀です。
戦国時代にはとても人気の刀となり、各国の戦国大名たちが争ってこの刀を欲したという最上大業物のかたなです。
ちなみに切れ味がものすごいため人気だったようです。
そして歌仙という名ですが、この歌仙は細川忠興が所有していた刀です。
この忠興、暴れん坊で有名な大名ですが、あるとき細川忠興がこの刀で自分の家臣36人を斬ったということがありました。
そしてその殺害した人数「36人」という人数を三十六歌仙にあやかって歌仙と名付けたのです。
この刀の拵(外装)は美的に優れた物で「歌仙拵」と呼ばれる。
わら草履は投げて渡した。武家屋敷で使えていた奉公人のお仕事
江戸時代武家屋敷に働いていた奉公人。かれらが主人である武士に使えていたわけだが、そのなかには様々な仕事があった。
草履とりの、わら草履なげもその仕事の一つ。
(信長につかえた秀吉の最初の仕事としてもしられてますよね。)
江戸時代主人が出入り口(玄関みたいなもん)にくると、この草履とりは、もっていた主人の草履を主人のあしもとに投げる。という仕事であった。

これは主人に無礼にならないように、1メートル以内にちかよらづに、草履を投げてそろえるというものなのだ。
江戸での初めての心中は?平井権八(ひらいごんぱち)と小紫(こむらさき)
歌舞伎芝居の題材としてよくあつかわれる「心中」もの。この心中を初めて江戸でやったのは平井権八(ひらいごんぱち)と小紫(こむらさき)だといわれています。これは江戸初期のころの話です。
平井権八(ひらいごんぱち)は鳥取藩士であった平井家の嫡子でした。
剣の腕前がすばらしく、十七歳で奥儀を極めたと云います。
ただその慢心からかけんかに絶えない暴れん坊の問題児でした...
あるとき父の同僚、本庄助太夫(ほんじょう・すけだゆう)を殺害ししてしまったため、出奔し江戸にむかいます。
その後、剣の腕をみこまれ、高藤藩というところの家来になりますが(低賃金で)、その低賃金を無視して金のかかる吉原(よしわら)に出入りするようになり、三浦屋の遊女、小紫(こむらさき)に入れ込み馴染となってしまいます。
どうやらこの権八は顔がかっこ良く、ちょいワル系(人を殺しているので「ちょい」ではないかもしれないですが...)。
こういうのが江戸ではモテたんだそうで、小紫のほうも本当に好きになってしましました。
ただしそこは遊女ですので当然、ゴンパチのほうは金に困りはじめます。
そのため浅草日本堤(にほんづつみ)で通行人から金銭を奪いう、いまでいう強盗殺人、辻斬(つじぎ)りを重ね、お金を得ていました。一説には130人ぐらい斬ったという説もあるようです。
その後、当然ですが指名手配となり、江戸を逃げ出しますが、にげきれず、大坂町奉行所へ自主。
ところが江戸へ護送される途中に脱走し(東海道藤沢宿だったといわれています)、小紫ものへ駆けつけ別離をつげましたが、小紫は
「うまれた時は別々でも死ぬ時は一緒」と心中を誓いました。
その後、平井権八は品川で磷付となり東昌寺に葬られましたが、そこへ小紫が吉原から抜け出てきて権八の墓の前で後追(あとお)い心中(しんじゅう)しました。
人々は二人を哀れみ、比翼塚が後にたてられました。
この平井権八の話は、浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)に脚色され、白井権八のモデルとなりましたが実際の話はこのようなところです。
平井権八いまでいう、イケメンでワルですが、江戸初期のこの当時は戦国の気風もまだ残っており、こういう乱暴な武士ももてはやされた部分があるようですね。

戸沢盛安(とざわ もりやす)は現秋田県付近の出羽角館に勢力を有した戦国武将・戦国大名のことである。
戸沢氏18代当主であり、13歳の若さで家督を続いだ。
智勇に優れた将して有名で、「鬼九郎」、「夜叉九郎」と呼ばれ(九郎とは盛安のこと)、その武勇は近隣の大名に恐れられたという。だが、ただの荒武者ではなく捕虜にした兵士を逃がしたりした、という、優しい側面もあった。イノシシ武者ということではなかったようである。
この戸沢盛安は外交にも先見の明があり、1579年には、織田信長に鷹や名馬を送ったり、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、北浦郡4万4千石の所領を約束されている。
この、小田原征伐において盛安は自領から東海道をとおって大井川を越して参陣するのだが、この大井川を盛安は泳いでわたった、という話がある。
小田原征伐の際に大井川を越した先の島田で陣をはっていた秀吉のところに
今さきほど、着陣したので一目お目通りを願いたいという武者が現れた。戸沢盛安である。
びしょぬれの盛安、は秀吉の前で、名乗りを上げた
「出羽角館の、戸沢九郎盛安。此度の戦に馳せ参じんるため、大井川を泳いで参った!」といったのだ。
この泳ぎが理由ではないだろうが、この小田原征伐の際に盛安は死んでしまっている。
戸沢 盛安(とざわ もりやす)は泳ぎの名人?の続きを読む
北条家の創立の王、北条早雲(ほうじょうそううん)は盲人を間者(忍者として)としていたという説がある。
早雲は「北条家の領内に盲人いらぬ、盲人はみんな捕らえて、海に沈めよ」と言い出した。
当たり前だが、盲人達は皆他国へ逃げようとした、というか逃げた。
が、当然のこった者達もおり、領内にのこった盲人を言葉通り早雲は捉えたのである。
ところが早雲は彼らを殺しはせず、盲人達に対して
「北条の領内にお前達がこのまま居ては死んでしまだろう、お前達は他国へいき、他国の情勢を逐一知らせよ」と命じたという。このようにして盲人達は早雲の間者として働いたというのだ。
盲人達にとっては、殺すとか変な噂を流されたり、捉え足れスパイになれと云われたり、殺されないにしろ大変だったと思うが...
戦国時代は、盲人を間者として他国の諜報につかっていた大名は多く島津家などにもそのような記録がのこっている。
北条早雲が利用した盲人忍者の続きを読む
幕末の維新志士、坂本龍馬が愛用した拳銃は2丁あります。
■S&Wモデル2アーミー 33口径(スミス・アンド・ウエッソン社)
■S&Wモデル1 22口径(スミス・アンド・ウエッソン社)
■S&Wモデル2アーミー 33口径(スミス・アンド・ウエッソン社)
これは同じ維新志士、高杉晋作から贈呈された銃で、寺田屋事件の際に使用されたこの銃である。
しかし同事件の際に紛失したという逸話がある。
■S&Wモデル1 22口径(スミス・アンド・ウエッソン社)
寺田屋事件の際に使用されたS&Wモデル2アーミー 33口径の銃は、寺田屋事件の際に紛失し、後に代わりに買ったのが、S&Wモデル1 22口径である。
これは龍馬の妻・お龍も所持し、それぞれ1丁ずつもっていた。
当然この銃は龍馬が暗殺された時も所持していたが、使う事なく龍馬は殺害されている。使ういとまを与えなかったのであろうという事が推察される。
ちなみに坂本龍馬は薩摩滞在時の折に、これで狩猟などをしたという記録がある。




